行動選択の基準ってなんだろう?

今日は、私たちが日常で当たり前のようにして起こしている「行動」について因数分解してみようと思います。

 

まずは、ワクワクベースのポジティブな行動について。

皆さんは、何気ない毎日の日常生活の中で、ワクワクの感情って出てくることがありますか?

 

ワクワクした熱い情熱を持って、料理をしてみたり?行ったことのないところへ出かけてみたり?
スケボーをしてみたり?ゲームをしてみたり?

 

子供の頃に夢中になって遊んでいた頃のようなワクワク、情熱のポジティブな感情に基づいた行動ですね。

 

わたし自身が、ワクワクに夢中になって遊んでいた記憶でよく覚えているのが、中学生の時に、友達3人で水鉄砲を投げ合って遊び、全身びしょ濡れになってはしゃいだ時間です。

時間も忘れ、後先のことなんか考えもせずに、ただただ「今に夢中」になって遊んでいた感覚。とっても楽しかったんですね。

 

大人になると、こういった感覚って徐々に減っていって忘れてしまうことも、多々あるのではないでしょか。

 

特に子供を持つと、周りに迷惑をかけないようにと必死になって気を使って、躾としてしっかりとした子供に育てようと、ワクワクした気持ちに蓋をして子育てをする、なんてこともあるかもしれません。

 

子供の頃は概念が少ないですから、ポジティブな感情を持つのが自然でしょうが、生きていくために必要な躾を家庭や学校の中でうけ、その過程で概念を受け入れ、ネガティブな概念が潜在意識に刻まれていきます。

そうするとワクワクなポジティブ感情は、ネガティブによって蓋をしてしまい、何が楽しいのか何が好きなのか、自分ではわからなくなってしまいます。

 

実はわたしもこの過程を辿ってきました。自分が好きで楽しいと思っていたことは、概念に基づいていた行動であり、心からの情熱で湧き出てくるものではなかった?と気づきがあったのが、1年ほど前でした。

それまで当たり前に行なっていたことや概念を、少しずつ手放し、限りなく何も無いゼロの状態に戻していくチャレンジをしていました。

例えば、夫の弁当作りをやめる、仕事をやめる、子供の送迎をやめる、庭の管理を外注する、夕食作りを期間限定でやめる、など。

妻として母としての役割を少しづつ手放していったわけです。

当たり前のようにして自分に義務を課して役割を果たすのが、妻、母の役割であるし、女としての存在価値が上がる。愚痴を言いながらも頑張って役割を果たしている方が、自己価値も上がるから、役割を果たすとはメリットがあるんですね。

 

さて話が変わりますが、私たちが通常起こっている「行動」を、主にこの3つに分類してみます。

 

①不安や恐れなどのネガティブを感じないようにするための「回避行動」

②誰かに喜んでもらったり認めてもらうための「期待行動」

③ワクワクの情熱がベースの「ひらめき行動」

 

では上記で書いた、妻として母としての役割を果たす「行動」は、この3つの中でどれに当てはまるでしょうか?

 

 

 

 

それは。。。

①不安や恐れなどのネガティブを感じないようにするための「回避行動」と捉えています。

 

自分の存在価値を下げないために(無価値にならないように回避している)役割を頑張って果たす、というものです。

当たり前すぎて気づきにくいし、頑張っている方としてみれば、反発するネガティブな感情が出てくるかもしれません。

でも、潜在意識レベルで見ると、このような観念が深いところに眠っているとされます。

 

本質は、私たちはここにいるだけで存在価値があり、存在愛である。
役割を頑張って果たさなくても果たしてもどっちでも良くて、役割に執着している状態になっていることに、ただ気づけばいいのです。

 

ここに気づかせてくれるための、役割であり、女性として生まれてきたギフトではないのかなと思います。

 

 

この辺りのネガティブを手放していくと、自然とひらめきが降りてきて、ワクワクの情熱に沿って行動できるポジティブな生き方ができてきます。

 

わたしも現在、ひらめきのアンテナを大事にして、その瞬間瞬間を行動に移して生きる暮らし方にシフトする日々です。

ひらめきをアンテナにしていると、自分の気持ちがコロコロ変わることが多々あることに気付かされます。固定化せず、柔軟に、その瞬間を委ねていく生き方が、自然の流れに沿って心地よいのかもしれません。

 

皆さんは、行動をどのように選択していますか?反射反応で無意識にしている行動は、幼少期に受け入れた概念に基づいていますので、一度、ご自身と向き合い、自分を知ることに意識を向けてみるといいかなと思います。